フロリダ グレープフルーツの歴史

グレープフルーツの発見

グレープフルーツが文献に最初に登場するのは、1750年にイギリス人の学者グリフィス・ヒューズが発表した「バルバドスの自然史(The Natural History of Barbados)」という本の中です。名前の由来はグレープフルーツがブドウの房のようになる様からだと言われています。発見当初のグレープフルーツは神話に登場する果実になぞらえて、禁断の果実と呼ばれていました。専門家の間では当初、グレープフルーツは文旦の変種であると考えられていましたが、1837年にようやくスコットランドの植物学者、ジェームズ・マクフェイデンの「ジャマイカの植物(Flora of Jamaica)」の中で文旦と分けられ、Citrus paradisi(楽園の柑橘)という学名が与えられました。1948年頃には、グレープフルーツは文旦の変種ではなく、文旦とオレンジの交配種であるということが広く知られるようになり、今日に至ります。

アメリカ、そしてフロリダへ

アメリカ大陸に最初のかんきつを持ち込んだのはコロンブスだと言われています。1500年代前半にはスペイン人の開拓者、ポンセ・デ・レオンによって、フロリダに初めてオレンジの木が植えられ、以降、フロリダ州とは切っても切れない柑橘の歴史が始まりました。グレープフルーツはフロリダ柑橘の中では新参者で、初めてフロリダにグレープフルーツを持ち込んだのはフランスの貴族、オデット・フィリップだと言われ、彼によって1823年に最初のグレープフルーツ果樹園が作られました。

アメリカ、そしてフロリダへ

フロリダ柑橘産業の歴史

オデット・フィリップ伯爵がフロリダに最初のグレープフルーツ果樹園をつくったころ、フロリダの柑橘産業は、フロリダ北部で盛んで、生産者は樽にかんきつ類を入れて、船で市場へと送っていました。

19世紀には、かんきつ類の木々はフロリダの森のいたるところで自生していたと考えられています。また、人間が管理している柑橘果樹園は、セント・ジョンズ・リバー沿いや、タンパ周辺にあったと考えられています。フロリダ特有の砂状の土や亜熱帯気候は、初期の入植者たちが持ち込んだ、かんきつ類の種の栽培に理想的な環境でしたが、フロリダの柑橘産業が、十分にビジネスとして成り立つまでには、かんきつ類がフロリダに持ち込まれてから400年ほどがかかったことになります。

南北戦争(1861年から1865年)直後のフロリダの年間商用かんきつ類生産量は、およそ100万ボックス。これが1893年には500万ボックスに達しました。この背景には、輸送技術の進化によって、アメリカ北部があたらしい市場として開拓されたこと、さわやかで健康に良いフロリダのかんきつ類への需要が徐々に高まったことがあります。

フロリダ柑橘産業の歴史
フロリダ柑橘産業の歴史

南へ

1894年から95年にフロリダを襲った大寒波の影響で、フロリダの商用かんきつ類の生産量は、わずか14万7,000ボックスにまで減少しました。寒波をさけるため、柑橘の栽培地は徐々に南方へと移動。1910 年には、寒波以前のレベルまで生産量が回復しています。

1915年、生産量は1,000万ボックスにまで達し、1950年には1億ボックスを達成。1971年には2億ボックスを超えました。

もちろん、20世紀にも、フロリダの柑橘産業は寒波の被害をたびたび受けています。しかし、そのたびにあらたな果樹園を南方につくりながら、フロリダの柑橘産業は成長をつづけました。

今日、フロリダでは10,000ヘクタール(東京ドーム約2,100個分)の農園にてグレープフルーツを栽培しており、世界最大級の生産量を誇っています。

フロリダグレープフルーツに迫る脅威

他の農産物同様、グレープフルーツも様々な自然の猛威に日々さらされています。

その代表的なものが近年世界中の柑橘生産地を襲っている、柑橘グリーニングと言う病害です。

グリーニングの治療法は現在に至るまで確立されておらず、フロリダでも2005年にグリーニングが確認されて以来、減産傾向に陥っています。

また、フロリダはハリケーンが多く発生する地域に位置するため、度重なる被害にあっています。

フロリダグレープフルーツに迫る脅威

フロリダグレープフルーツの展望

病害やハリケーンなどの脅威に、フロリダの生産者はただ手をこまねいているわけではありません。

病害の影響を受けにくい苗木や栽培方法の開発など、様々な取り組みが行われています。こうした取り組みのおかげで、少しずつですがフロリダの柑橘生産は回復に向かっています。

フロリダグレープフルーツの展望

幼苗にネットをかけて、害虫の侵入を防ぐ

フロリダグレープフルーツの展望

畑全体を薄いテントで覆う実験施設

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